2008年9月12日 (金)

遠い日の恋敵、

私は誕生日が三月三十日だ、もう少しで翌学年になる所だ。

同級生に特にハンディを感じる事はなかったが、チビだった。

I 君という転校生が来る中一まで、朝礼は一番まえだった。

I 君はチビの私が見下ろすチビだった。

私は二番になった。中三になった、上の方は入れ替わっても

I 君との二人の序列は不動だった。

修学旅行で京都,奈良、に行った。列車を降りてバスに乗る。

ガイドさんはきれいな人だった、前の方に I 君と座る。

前にいる二人に何かとガイドさんは話しかける。

私はときめき、うれしかった。 I 君はクールだった。

I 君はヒョウキンだったが幼かった、おみやげに刀と水鉄砲を

買っていた。二日目、横整列をした時 I 君は水鉄砲の

調整に余念がなかった、「きゃ~」と言うガイドさん(声もきれい)

振り返るみんな、I 君が赤くなって下を向いている。

「いけない人ね」と優しくガイドさん、I 君さらに赤くなる。

調整に失敗した水鉄砲が見事にスカートと足を濡らした。

以後、ガイドさんの関心は I 君の独り占めだった。(ような?)

わたしは「やられた」と思った、意図的でないだけに【運命】とは

こういうものか、などと当時思った。半世紀前の思い出。

以後、I 君を油断ならない奴、と尊敬した。

2008年8月27日 (水)

泡立つ心とその後に、

お盆中、突然、隣の足利市から長い付き合いの

Mさんが訪れてくれた。

Mさんは私と同年だ、定年でいまは嘱託という立場らしい。

一年半ばかりすると、悠々自適となるらしい。

一昨年亡くなった、Sさんの兄上だ、Sさんの線香あげに

来たらしい。そのついでに寄ってくれた、とMさんは言ったが

てみやげが、そうでないことを物語っている。

仕事と手が切れたら知り合いが主宰するハイキングクラブだか

山岳会にはいろうとかんがえているんだ、と言う。

元々、ジョギングなどをしてマラソン大会に出たりする

スポーツマンだ、一見して手入れを怠っていない身体をしている。

そのMさんが、これから山をやってみようという。

私はほんの少し心が泡立った、山は私にとって大切な

思い出だが、【切り離さなければ】と言うジレンマがある。

久ぶりのMさんとの邂逅、山の話、とても楽しかった。

帰っていくMさんを送りながら私は素直に健康と趣味の

成功を祝福し祈った。

私の心の泡立ちの後はちょっと爽やかな気分がした。

私は過去に対して避けて通ろうとする気味がある。

時には加減にも寄るが、心を泡立てる事も大切かも

しれない。   Mさん、ありがとう。

2008年2月26日 (火)

青春のちいさな うねり、

ちかごろ、姪のHさんの就職が決まった。

アルバイトから始まり、2~3ヶ月先正社員になるらしい。

私は本当によかったなァ、と思った。

さかのぼる事、1ヶ月・・義妹のNさんの次女Yさんと

Kさんの次女Hさん、それぞれの母親と遊びに来た。

小さい頃は小鳥のように、仲良くさえずり合っていたが

大きくなるにつれ疎遠ではないが接触は少なくなっていた、

YさんとNさん、久しぶりの顔合わせだった。

居間のコタツで二人はお喋りをしていた、私は隣のダイニングで

新聞を読んでいた。  「結局、Hちゃん、なにをやりたいの?」

一瞬時間が止まる、きつい語調でもなく詰問調でもないが、

大学2年ののんきなYさんの言葉、失業中のHさんには

(ちくっ、)っとしたのではないだろうか?ちょっと、心配したが

その後もなんでもなく会話が続いたので私は安心した。

その時、Hさん 同年のYさんを眩しげに見たような気がしたが、

先日「Hさん、良かったね」と云ったら、

「うん」と誇らしげに胸を張り、いい笑顔をみせた。

私は大いに安心をし大いに嬉しくなった。

青春の小さなうねり、を傍観したような気がした。

2008年1月29日 (火)

どうしても、

ラジオで親子のやり取り、親子のあり方などを話していた。

私の父は私が中二のときに亡くなった。

50年も前の話だ、寡黙で物静かな人だった。

私はおよそ、両親や先生や目上の人に逆らったと言う記憶がない。

それでも、かすかに恐るおそる聞き質したことはある、でも

元々【だめだろう】から出発してるので「ダメ」と言われると

反駁するでもなくアッサリ引き下がっていた覚えが概ねだ。

ただ一度だけ父に食い下がったことがある、

「ナゼ、どうして?」と、すると父は「どうしても!」と言う。

この「どうしても」が出ちゃうと裁判が結審したようなもので、

引き下がるしかない、・・・昔の家庭では親子のやり取りに、

この「どうしても!」という伝家の宝刀が、モノを言うシーンを、

友達の家でもよく見聞きしたものだ。

今思うに【よき時代】だったと思う、物質的な乏しさ貧しさが

あったとはいえ、むしろそうだったからこその、お互いを

思いやる落しどころを、親も子も心得ていたような気がする。

今の時代が・・とか、今の子供は・などと言うつもりではなく

父との数少ない思い出に、子供の要求に応えられず、

「どうしても」と言わざるを得なかった、父の悲しげな目を

ラジオを聴いていて思い出したからだった。

「父さん、俺べつに辛くなかったよ、気にしないでね」

2008年1月16日 (水)

未だ果たせず青春手形、

      Kamikouti くりっく

35年前、北アルプス穂高連峰縦走のときのスナップ。

3日前、「takumiさん、こんなのが・・」義妹K子さんの発掘品、

整理されてない幾十葉の古い写真。

多分20~25年ぶりだろうか見るのは。その中の一枚、

上高地、帝国ホテルの裏庭(冬季閉鎖中をコッソリ忍び込んだ、時効)

この一枚を手にした時懐かしくも辛にがいものが脳裏をよぎる。

未来の妻は気軽く「いつか、ここへ泊まりたいね」

未来の夫・・・及び腰に「う、うん・・いつかね、きっと」

多分、その時は本気の【帝国ホテル宿泊手形】を発行した。

私はきのうの事のように思い出した。

妻は忘れたろうか、多分覚えていまい、これも時効だろうか。

今思う、「空手形にしたくないな」

夢が発生した、何時の日か、今は建て替えられたらしい、

「上高地、帝国ホテルへ泊まりに行くよ、さァ」

青春の手形、履行の可能性はないわけじゃない。

限りなくむずかしいが。

2007年8月20日 (月)

三斗小屋宿の夏草の譜、

私がはるか若い頃、那須茶臼岳の西側に

三斗小屋温泉(サンド小屋と読むらしい、念の為・らしい)と言うのがあり

その温泉を経由して茶臼、南月山に行ったことがある。

その昔、江戸から会津に行くのには、日光方面からの

会津西街道、白河からの白河街道があったそうな。

それにもう一つ、会津中街道、私はそれすら知らず、ひたすら

地図とガイドブックだけを読んでいた。

沼原と言う所から歩き出した、地図をよく記憶していたので

一部、川の中も歩いたが、迷うことはなかった。

途中、左手に墓所があった、林の中なのでギョッとした。

○○戦士の墓、などとあった、昔集落でもあってこの地からも

大戦中、出征した人がいたんだな、位に思い通り過ぎた。

やがて、小広い場所に出た、三斗小屋宿という場所だ。

少し早いが、泊まりの宿まではもう一足、急ぐことは無いので

昼を摂ることにした、季節は盆明けの丁度今頃だった。

あたりは盆菊の一面群生だった、天気はよく.のどか.だった。

私はおにぎりを頬張りながら立て看板があったので行って

読んでみた、途端に咀嚼の顎が止まってしまった。

文面は憶えていないが、概ね「会津中街道の三斗小屋宿と

云って江戸への交通の要衝であり、参勤交代にも使われた

事があり、戊辰戦争の激戦地であった」私の目には

黄色く群生していた盆菊が突然色を失い、そこかしこから

鉢巻をし刀を持った武士達が湧いて出て樹の陰から弓を

射る者、刀を切り結ぶ者などが、見える様だった。

(戊辰戦争、300年の平和を破り鳥羽、伏見から始まり函館まで

日本中を巻き込んだ権力闘争の一大内戦だった。)

「そうか、さっきの墓はこの場で壮絶な死を遂げた兵士達の

墓だったのだ」 どの位の時間か、暫らく思念が跳んでしまった。

気持が落ち着くにつれ、盆菊が風に揺れているのが見えてきた。

命のやり取りのあった場所で、私はのんびりとおにぎりを

食べている、「平和とはなんて幸せなんだろう」若かった私は

その日の温泉も翌日の山旅も、会津藩の益荒男たちに

心奪われて、よく憶えていない。

しかし、印象深い山旅の一つだった。

有り難いことに平和は今も続いている。

2007年6月15日 (金)

懐かしき友へ、

梅雨の晴れ間の台風一過のような青空が広がる。

空を見ていたら、H君、君を思い出した。変な連想で

申し訳ないが青空のような君ではあるが、空を向いてる

君の鼻が発想だった。(金の卵)と言われながら、その

意味も分らず汗を流し、同世代の学生運動を横目に

汗を流し、その後も大きな波、小さな波に翻弄されながらも

ささやかな恋愛をし、当たり前の所帯を持ち、よき父となり

いまや、風の便りに良きジジとなったと聞く。

さほど、デッパリもせず、遅れも取らず、はみ出しもせず

諍いもせず、静かにたゆとう海のように生きて来た君、

君がどの位、認識してるか分らぬが、中学の頃、私が

孤立していた時(今で言う、いじめ)ただ一人、秘かに

フォローしてくれた、私には秘かでも十分だった。

君の存在は私にとって、百万の味方だった。

だから何かあると、君の心配そうな顔が浮かんでくる。

「便りがないのは達者のしるし」と筆不精の君、だから

私は自分の病状を話さず、時候の挨拶に留める、

君の心配顔を思い浮かべたくないから。

梅雨が明けたら、暑中見舞いでも出してみようか、

「H君、俺は今も達者だよ。」と

きっと「便りがないのは達者のしるし」という返事が

返って来るだろう

2007年6月 9日 (土)

気のいい山男

きょうは朝から、いい雨が降っている、まるで梅雨だ。

人も来なかったし、記事の材料もないので、山の話をしよう。

M君は、一言居士で何かにつけて、一言いわないと気が

すまない、こだわりの人だ。例えば山を歩いていて

ラジオを聴きながらすれ違う人あれば、「全く、日常を山に

持ち込むんじゃねえよ」とか、追い越しては休み、追い越し

ては休む人あれば「ゆっくり歩くか、もっと足鍛えろよ」とか

スナップ写真撮ってる人あれば「あんなにカメラ意識して、

もっと自然になれないかねェ」とか、勿論一緒に歩いてる

私にしか聞こえない声でつぶやく、私は彼のぼやきが

好きだった、何かあると何て言うかな?、と彼の反応を

待っている自分に気付く。 そのくせ彼は泊まりの時は

必ず、納豆を持って来て「俺は、一日一回はこれを

食わんとダメなんだよな」等とうそぶく、自分はその

対象に入らないらしい。

中央アルプスでの時、沢で昼を取ってる時、谷の上から

歌いながら下りてくる、女の子の一団があった、

私は彼が何て言うか待った、~箱根の山は天下のけん~

「アルプスで聞く、箱根山もいいもんだなァ」だって。

彼の無節操なぼやきは、ますます聞きやすくなった。

彼の名誉の為、ひとこと、決して彼は、いやみでも

鼻持ちならない男でもない、気のいい男だった。

でも、いまだ、独身らしい、・・なぜ?。

2007年5月16日 (水)

腹のたつバナナの思い出

あさ、パンを食べていた時、ふと見るとテーブルの上のバナナが

ずいぶん黒くなっていた、「黒いね」と言ったら母が「大分たつから

捨てなきゃ」と言う、妻が「そうね」と手に取り、生ゴミの容器の方に

持って行こうとする、私は「一寸待って」と留める、皮をむいて見ると

まだ半分以上は食べられる、(食べすぎ)と思ったが食べちゃった。

幼い頃からの思い入れが、バナナを捨てる事を出来なかった。

近頃、南洋方面(へへっ、古いね)を旅行した、Mさんの云う 

くだもの、マンゴーやパパイヤなんて聞いた事のない時代に育った

私は少年時代、この世にバナナ以上の食べ物はないと思っていた

今はそこまで思いはしないが、還暦以上で貧しい家に育った人は

大部分、理解してくれると思う。  小学生の頃、近所の金持ちの

家の奴が、やな奴で(村でただ一台のテレビが有ったので、逆ら

えなかったが)バナナを家で食べずに見せびらかしに、みんな

の前で食べてみせる、そして皮を渡して舐めてみろ、と言う

貧しい家の奴が四等分された皮を四人舐める、私も舐めた

「うまい!」プライドも何もなく舐めた。 そのくらい当時のバナナ

は高価で威力があった、死ぬほど中身を食べてみたいと

思ったものだ。その頃の思いが今もクサビのように刺さったまま

でいるようだ。今の人には想像も付かない嘘のような本当の

話だ、でも思い返してみると、あの金持ちんちの奴は本当に

やな奴だったなァ、んんー、腹たってきたなァ。

テレビで力道山、ルー、テーズを見ていた頃の話。

2007年5月13日 (日)

晴れ男、雨男。

若い頃、私は何処かへ出かけて、雨に降られたという記憶が

いくらもない、特に独身時代、山登りをして悪天候でひどい

目に遭った、というのは多分20回に1回位だろう、

いわゆる晴れ男だ、勿論雨具はチャンと用意していくが

あまり出番はなかった。友人のK君は雨男だったらしい、

K君との初 天気対決は八ヶ岳縦走だった。

横岳山頂でピーカンの空の下、全視界のパノラマを二人で

眺めながら山の名を当てあった、私は比較的どの山へ

登っても山の形は覚えているので自信があった、処がK君は

驚くほど山名を知らない。 私よりキャリアはあるし、先鋭的な

岩登りもやっている、K君に尋ねたら照れくさそうに彼は

「俺、実は雨男なんだよ」と言う、今まで何年も山やってきて

こんなに晴れたのは初めてだと言う、「こんなにアルプスが

奇麗だなんてしらなかったよ」と言う。私はニンマリした、

体力的にも技術的にも、はるかな人と思っていたK君が

急に身近な人になった、そして「俺の勝ち」と思った。

以後、K君と何度山に行ったか分らないが、にわか雨以外

私の記憶にはない、でも結婚してから、俄然雨が多くなった、

妻のお陰で私の霊力が落ちたらしい、50%を軽くきるよう

になった。雨具を買い換えたのはそれからだった。

私はその頃、秘かに「晴れ男」の看板を下ろした。

2007年4月 5日 (木)

その昔の大人と子供の関係

一泊二日の山旅のフィナーレだ。

キャンプ場が見えてきた、直線で約200M位だろうか、

道は回りこんで1K位だから、15分足らずだ、あとはバスに

乗って駅にいくだけだ、バスの時間まで一時間半はある。

私は大きな石の上に座ってタバコで一服ときめこんだ、そして

下のキャンプ場を眺めていた。小さな池があり大人と子供が

いた、池の畔で男は座りながらやはりタバコを吸っていた。

子供は石投げをしていた、と突然、石がそれて男の頭を

かすめた、男は怒って子供に大きな声で注意をした、次の

瞬間立ち上がったと思ったら、子供に近づきいきなりゴツン

とやった、子供は反省したらしく、おとなしく下を向いていた。

「なんて父親だ」と私は思った、心の小さな人間だなァとも

思った。  私はキャンプ場へ下りていった、するとさっきの

子供が家族と一緒にいた、父親を見た、さっきの男と

違う人だ。「他人だったのか」私はバスから乗りかえた電車に

心地よく揺られながら考えた、もしかしたらあの男の子は

ゴツンてやられたのが良かったのかも知れないな、きっと

注意されただけより、身に沁みたに違いない、と思った。

私の独身時代の昔話だ、昔は大人も真剣に怒った、

子供も素直に受け入れた。いい時代だったな、と思うのは

歳のせい、でもいい関係だったなと、歳とは別にして思う。

いつか又、そういういい時代、来るだろうか。

男の子はもう、いい小父さんになってるだろう。

2007年3月13日 (火)

K君の友人K.Iさんの病状

友達をランクや優先順位する訳にはいかないが、

一番の友となるとK君が頭に浮かぶ。

その付き合いは35年に及ぶ、アルプスを歩いたのも

K君のお陰、なにより妻との出会い、結婚に到るも

K君のお陰、彼には色んな意味で頭が上がらない。

元気な頃は手紙だけで何年も会わなかったが、

私の病気以来、つい先日も東京から片道二時間半の

道のりを奥さんを連れてこの2年間で5度目の訪門をして

くれた。 話をしているうち、K君の釣り仲間K.Iさんの

話題になった。(私は面識はない)K.Iさんは定年して5年、

悠々自適だったらしい。ある日突然脳梗塞に襲われた、

半年前らしい。半身不随となり、すっかりショゲたK.Iさんは

釣り道具一式そっくり処分してしまったそうだ。K.Iさんの

行動は私にはよくわかる、私も自分の状況が今後さほど

好転は考えにくいなと思ったとき、過去との決別の意味で、

山道具を処分してしまった、(本や地図の処分は今も

後悔している)多分悔し紛れもあると思う。

K君は人伝にそれを聞いて心の整理がつかなく

なって、会いに行けなくなってしまった。私はK君に

「行ってこいよ、絶対待ってるからK.Iさんは全て

理解したうえで、待ってるから」と言った。「ウン、行って

見るよ」とは言っていたが時間は少し掛かるだろう。

K君の気持もK.Iさんの気持も私にはよく分る。

遠からずK君から報告が届くだろう。

2007年2月20日 (火)

高見石の小屋

きょうは、書く事ないので、山の話。

八ヶ岳は男性的な荒々しい南八ヶ岳と、

女性的なやさしい趣の北八ヶ岳に

大きく分類される。その境は私には

定かと分らぬが多分、黒百合平を挟んで

渋の湯と稲子湯を結んだ辺りと思う。

(記憶、怪しいので信じない事)

その辺から少し北に行った処に高見石という

岩の丘がある。(丘といっても二千M以上)

登って見渡すとカナダに行ったような気分に

なる。(行った事ないけど)

その傍に高見石小屋がある。その山小屋に

友人のKちゃん、Iちゃんという兄弟が

小屋番をしていた。こよなく山を愛する

二人だった。但し風貌体躯はポパイに出てくる

ブルートのようだった、なのに心のとても、

とてもやさしい青年だった。二度、泊まりに

いったが、二人はとても喜んでくれ、周辺を

案内してくれた。黒百合もその時初めて見た。

懐かしい思い出だ。  なのに、その二年後

弟のIちゃんは、自らこの世を去った。もしも、

私が女なら、この人なら、と思わせるような

青年だったが。・・・  理由はわからぬが

彼の優しさが、あだになったような気がする。

南の方を見て、「必ず、本峰を(南八の主脈)

案内するから,行こうよ。」とよく口にしてたが

とうとう、果たせず仕舞いだった。

彼はまだ、高見石のあたりを歩いている

かもしれない。

2007年1月27日 (土)

山の先輩に、「夜行日帰りで、天狗山に行こうと

思ってるんですが」「フーン、まあ手ごろかもしれないね」

出発の少し前、先輩が来て「歩き出し1時間半は水を

我慢して、最初にこれをかじって見。」とレモンを2個

くれた。東京、新宿発、夜行でたち、明け方小海線に

乗りかえる、日本で一番、高い所を走る高原列車だ。

5月半ば、桜が満開だった。しばらく行くと左手に

真っ白な山「うそだろ・・・・」登山にまだそんなに

慣れていない頃の話、胸がドキドキしてきた、先輩

こんなこと何も云ってなかったなー。  駅について

バスに乗る、するとバスはその白い山からどんどん

遠ざかって行く、安心するやら一寸ガッカリするやら

バスを降りて1時間ほど歩くと急登(急坂)になった

約束の1時間半で休憩、レモンを手に取った、

甘党なので、酸っぱい物,辛いものは苦手だから

ためらったけど、思い切ってガブッとやってみた

するとそのレモン甘いのなんのって、自分でも

信じられないくらい、あっという間に食べちゃった。

そして、とても元気がでた、快適な山登りになった。

山頂について、朝、見た白い山が素晴らしかった

後で知った、名峰八ヶ岳だった。

後日、先輩にレモンのお礼をいった。

「あんな甘いレモン初めて食べました、どこで

買ったんですか?」 先輩は「まだあるから、やるよ

食べて見。」 私は山の時の気分でガブリ!!・・

・・・「すっぺー・・ううう」

「汗をかけよー、汗はなんでも甘くしてくれる」

そういいながら先輩は、大笑いした。